空の棺のジュリエット 空の棺のジュリエット

軍人の娘に産まれたことが、私にとって運の尽きだったのだと思います。
文明開化、女性も昔のように世の中を隅で眺める立場から抜け出したそんな折、私は未だ余所の若いお嬢さんのように自由に街へ出ることも出来ず、無論恋などは以ての他でした。
唯一私に許されたことと言えば、勉学に勤しむこと──読み書きなどは幼少の折から出来ましたし、そのお陰で読書という慰みが出来たのは有り難いことでした。しかし、その書物から恋愛の切なさや美しさを知ってしまったのは、やはり悔やむべきことだと思うのです。
シェークスピアの戯曲のページを捲るたび、私はまだ見ぬ運命の殿方をローミオに重ね合わせては胸をときめかせ、同時にそれが現実とならぬ苦しみに耐えねばなりませんでした。
そして、それでもいつかはと見ていた甘い夢が打ち砕かれた日こそが、あの方との出会いでした。

いくら恋愛が自由化した時代とはいえ、軍人の娘に限らなくとも、政略結婚というものはまだよくあることでした。ある日突然顔も知らない男の妻になるなんて話は珍しくもありません。
私自身もお父様からその話──何でも、相手は陸軍将校、名を極卒様という方とのことでした──を告げられたときは、驚きや拒絶よりも合点がいきました。
何やら使用人達が私を見ながらひそひそと言葉を交わすのを幾度となく目にしていたからです。
爺やの不自然な様子にも不審を抱いていた私は、思わずなるほどと頷いてしまいました。
次に、少し憂鬱な気分になりました。これで私はあれほど憧れていた恋愛をする資格を失ってしまったのです。戸籍の上だけではあっても、人の妻である私が他の殿方と結ばれることはないのです。
叶わぬ恋といえば美しい響きですが、そう思うのは読者や観客だけ──自分がその立場になれば、それは苦しみ以外の何物でもないでしょう。

こうして私は顔も知らぬ男の元に嫁ぐことになりました。とはいえそれは形だけのこと、私の暮らしは一向に変わらない筈でした。
しかし、酔狂な方もいるものです。婚約が正式に決まった翌日、お父様から極卒様が私との対面を望んでいる、と告げられたので私はたいそう驚きました。
将校ともなれば職務に訓練にとお忙しいでしょうに、空いた僅かな時間を割いてまで私──悪い言い方をすれば単なる政略上の道具──と会いたい理由など、とんと見当が付きません。
お父様もそれは同じなのか、しきりに首を捻っていらっしゃいました。
しかし私には特に異存もなく、またこちらの損になることでもなし、と話は上手くまとまり、会食の席が設けられる運びとなりました。
それは見合いと呼ぶには順序があべこべでどうにもおかしな気分がしましたが、名目上とはいえ夫となる方に少しく興味はあったので、私に異存がないのは当然といえば当然のことでした。


続く

2008.12.17 up  










戻る inserted by FC2 system